以下のURLから模試のGoogle Documentにアクセスすることが可能です。
デフォルトのGoogle Documentは「閲覧モード」です。ページ上部 [ファイル] から [コピーを作成] をクリックすることで編集可能になります。
- Google Document: IELTSリーディング練習模試01
- PDF: IELTSリーディング模試01
以下のURLから模試のGoogle Documentにアクセスすることが可能です。
デフォルトのGoogle Documentは「閲覧モード」です。ページ上部 [ファイル] から [コピーを作成] をクリックすることで編集可能になります。
カワウソが、水中でどのように視界を調整するかについての説明
カワウソの、目的にかなった独特な体の形
カワウソの、未発達な感覚機能についての参照
何故、農業はカワウソの保護活動においては良くないものとされたかについての説明
カワウソの社交面での特徴についてのいくつかの詳細
赤ちゃんカワウソの成長についての説明
どのように保護活動を進めるかについての意見の対立
法律についての詳問
カワウソがどのように放熱に対しどのような対策を取っているか
カワウソの外毛に影響するものは何か?
コツメカワウソにとって必要でないスキルとは何か?
カワウソの中で、一番小さい行動範囲を持つのはどの カワウソか
カワウソが度々捕獲する動物のタイプは何か
A
カワウソは半水生哺乳類(但し、ラッコの場合は水生哺乳類)である。そんな彼らは、アナグマ、スカンク、テン、イタチ、オコジョやミンクを含むイタチ科の一員である。彼らの地球上での生息期間は、三千万年にものぼる。その間、食肉目である彼らの身体は、豊かな水中環境の恵みを最大限に利用するため、巧みな変化を遂げてきた。彼らは、長く平べったい胴体と短い足を持つ。これは、密生した藪の中を押し進んだり、穴の中で狩をしたりするのに最適な身体のつくりである。成体のオスのカワウソの場合、体長4フィート、体重30パウンドあることもある。メスは、体重約16パウンドとオスに比べ小柄な場合がほとんどだ。ユーラシアカワウソの鼻は、カワウソの種の中で最も小さいと言われており、それが浅い“W”のような形状であることも特徴である。カワウソの尻尾(船舵や船尾も同様に)は根元が丈夫で、平らな尾の先端に向かって先細った形をしている。このつくりが、水中を高速で泳ぐ時の推進装置の一部として働くのである。カワウソの体毛は二種類の毛で構成されている:防水性のある外皮として働く丈夫な保護毛と、体温を調整する手助けとなる密集してきめ細かな下毛である。それらの毛は、グルーミングによって常に良好な状態に保たれていなければならない。海の塩水がそれらの毛の内部に入り込んでしまうと、毛のせっかくの防水性と断熱性が低下してしまう。そのため、沿岸に住むカワウソにとって、淡水プールはとても大切なものなのである。彼らは水泳後、淡水プールで塩分を洗い流し、地面の植生に身を捩らせることで毛を乾かすのである。
B
においは、地上での狩猟、コミュニケーションそして危険を察知するのに使われる。彼らの鋭い嗅覚は、犬同等に敏感であると言えるだろう。彼らの目は小さく、地上での視野は恐らく狭いはずだ。しかし水中では、彼らは目のレンズの形をより球形状に変化させることができるため、水の反射を免れることができる。ほどよい明るさがある澄んだ水の中では、彼らは魚を一瞬で捉えることができる。カワウソの目と鼻孔は顔の高めの位置にあるため、体の残りの部分が水中に浸かっている時でさえ、周囲を見たり呼吸をしたりすることができる。鼻口部辺りから伸びる長いヒゲは、魚の存在を感知するのに使われる。魚が逃げ泳ぐ際に発生する、規則的な尾の振動をそのヒゲで検出できるのである。これによって、カワウソはとても濁った水の中でも狩をすることが可能である。水中では、水を掻く場合を除き、足を体に当て、体の後端は一連の垂直波動の中で曲げる姿勢をとる。カワウソは、各指の端から端ほどの長さもある水かきを持つが、その長さは指の先端までは及ばない。オオカワウソとアザラシは特に卓越した水かきを持つ一方、コツメカワウソは水かきを持たない。彼らは溝や水田でエビを捕まえるため、水かきを使い高速で水中を泳ぐ必要がないためである。カワウソの耳は、水圧に対して閉まる弁により保護されている。
C
カワウソが好んで住む環境として様々な条件が必要とされるため、実はカワウソが生息出来る場所というのはそう多くはない。水があることはもちろんのこと、川は(カワウソの餌として)十分な量の魚が暮らせるくらい大きくなければいけない。彼らはもともとシャイで用心深い生き物であるため、人の活動が余り及ばない場所を好む。もちろん、それも他のカワウソがすでに生息し始めていない場所であることが前提だ。実は、この最後の条件に限っては、カワウソの個体数が回復し始めてきたここ最近になって再び重要になってきたものである。オスのカワウソの典型的な行動範囲は25キロメートルで、メスのカワウソになるとその半分以下である。しかし、その彼らの行動範囲も、河川の生産性により大きく異なる。ある研究によると、オスのカワウソの行動範囲は12キロメートルから80キロメートルまで変化することがわかっている。彼らの餌がより豊富にある、沿岸部に生息するカワウソの場合は、オス・メスどちらの場合もその行動範囲は沿岸線の数キロメートル程度であろう。通常、オスの範囲の方がメスの範囲に比べ広いため、メス2、3匹程度の範囲と重なってしまうこともしばしばある。カワウソは、捉えることのできるものは何でも食する。スズメやヘビ、ナメクジまでもペロリと食べたという記録もある。魚以外では、ザリガニ、カニ、水鳥が彼らの主な獲物である。小型の哺乳類も時折捕獲され、最も一般的なものではウサギ、たまにモグラが捕獲されることもある。
D
ユーラシアカワウソは、餌が容易に手に入る時期であればいつでも繁殖をする。天候が厳しい、例えば冬のほとんどの間湖が凍っているスウェーデンのような場所であれば、春にカワウソの赤ん坊が生まれる。これは、次にまた天候の厳しい時期がやってくる時までに、赤ん坊がしっかり成長できているよう十分な期間を設けるためである。逆に、シェットランドでは、魚がより豊富に獲れる夏の時期に赤ん坊が生まれる。カワウソは一年を通していつでも繁殖することが出来るのだが、このように季節を選び繁殖をするものも中にはいるのだ。繰り返すが、彼らの繁殖時期は餌の入手可能性によるのである。餌が採れる範囲や、メスの質などの要因もまた、彼らの繁殖の時期に影響こともある。ユーラシアカワウソの妊娠期間は通常63日であるが、北米カワウソの場合は例外で、胚の着床が遅れることがある。
E
カワウソは通常、周囲による妨害を避けるために安全な巣の中で出産する。巣には、敷料(アシ、水辺の植物や草など)が敷かれており、母カワウソが餌を与えていない間、子カワウソを温かく保つことが出来るようになっている。1回における子どもの数は1〜5匹(2、3匹が最も一般的)と様々である。理由はまだよく解明されていないが、沿岸部のカワウソは産卵数が少ない傾向にある。生後5週目で、まだ700gしかない子カワウソ達は目を開け始める。7週目には離乳し固形の餌を食べ始める。10週目になると巣から出て、産まれて初めて、瞬きをして日の光を浴びるようになる。3ヶ月経ち、彼らはやっと水に浸かり始め、泳ぐことを学ぶ。8ヶ月後には狩も始めるが、その時期ではまだ母カワウソがたくさんの餌を与えている状況だ。9週目まできてやっと、母カワウソは気持ちよく子どもたちを巣から送り出すことが出来る。ここまで来れば、後は、母カワウソは次のオスが現れるのをゆったりと待つだけである。
F
英国のカワウソの窮状は60年代初頭には認識されていたが、主な原因が明らかになったのは70年代後半になってからであった。その原因とは、化学物質であった。1955年に農業やその他の産業に導入されたジルドリンやアルドリンなどの化学物質は非常に残留性が高く、ペレグリンハヤブサやスズメ鷹、その他の肉食動物の個体数が激減した主な原因としてすでに認識はされていた。化学物質は川の水系や食物連鎖に入り込み、段階を踏むごと(微生物から始まり、魚、そして最終的にはカワウソなど)にその化学物質の濃度が上がる。1962年から化学物質は段階的に廃止されたが、一部の種は急速に回復したものの、カワウソの数は回復せず、生息地の破壊と交通事故による死亡の両方が原因とみられ、80年代では個体数が減少し続けた。50~60年代には既に彼らの個体数は激減していたため、一つの地域でほんの一握りのカワウソが失われただけで、個体全体の存続が不可能になるか、あるいは全滅するかのところまできていた。
G
カワウソの個体数はイギリス全土で回復しつつある。彼らが生き残っていた、いくつかの地域で個体数が再び増加しており、それらの地域から国内の残りの地域へと拡大しているのである。これらはほぼ全て、カワウソに適した生息地の破壊を遅らせ、逆に住みやすい環境を整備することを進めた法律と保護活動の努力に加え、飼育下繁栄プログラムの再導入による成果である。しかし、多くの人は、飼育下繁殖されたカワウソの放流は、最終手段であると考えている。というのも、ラッコに適さない生息地では放流されても彼らは生き残ることができないし、適切な生息地では自然に個体数が拡大していくはず、というのが彼らの主張である。しかし、すでに分断され、脆弱な個体群に、飼育下繁栄のもとで育ったカワウソたちを放すことは、彼らの絶滅を促すのではなく寧ろ、安定化し個体数が拡大していくための十分な推進力として働くかもしれない。これは、1980年代の初めに、カワウソの個体数が20頭にまでも減っていたと思われるノーフォークで、オッタートラスト団体が実際に成し遂げたことである。団体は、現在はその飼育下繁殖プログラムを完全に終えている。
読書から閃きを得る
低温は、人々と穀物に利益をもたらす
気候と富の間にある正の相関関係
気候以外の富に関する要素
援助を利用する一番の得策
ユーラシア大陸とアフリカでの異なる属性
他の研究者による結論は、決して例外的なケースを除外するものではない
緯度は、国家の経済力を左右する重要な要素である。
A
ウィリアム・マスターズ博士は、蚊に関する本を読んでいた時に閃きを得た。「1793年、フィラデルフィアを襲った黄熱病の大流行についての逸話があった。この伝染病は、その都市に最初の霜が降りるまで、都市を疲弊させたのだ。」とマスターズは振り返る。寒さによる悪天候が蚊を凍りつかせ、それによってフィラデルフィアは一時の黄熱病の流行から回復することが出来たのだ。
B
もし、天候がその都市で起こった幸運の鍵であるとしたら、それが国家の幸運の鍵でないはずはなかろう。裕福な先進国のほとんどが緯度40度以上の地域に存在するのはなぜなのか、という最も永続的な経済的謎の核心は実は霜にあるのではないか(つまり、寒い気候と国家の経済的な繁栄の間に何か深い結びつきがあるのではないか、ということを言っている)。2年間の研究の末、彼はその謎の一部を解明することができたのではと考える。インディアナ州パーデュー大学の農業経済学者であるマスターズ氏とボストンのタフツ大学のマーガレット・マクミラン氏は、例年の霜が富裕国と貧困国を分け隔てる要因の一つであることを明らかにした。今月の『Journal of Economic Growth』誌に発表された研究で、彼らは、一年を通し寒い時期があることについて、主に2つの利点があると推測している。穀物を破壊する害虫・害獣達を凍らせ、また蚊のような病気を運ぶ生き物をも凍らせることである。これら2つのリスクを回避できる結果、国に農業の豊かさと大きな労働力が生まれるというのだ。
C
彼らは、2つの情報を入手した。1つ目は各国の平均所得、2つ目はイースト・アングリア大学の気候データである。彼らは、この2つのデータの間に奇妙な合意点があることを発見した。月のうちに霜が降りる日が5日以上ある国は一様に裕福である一方、5日未満の国は貧困に陥っていたのである。彼らは、5日間という数字は極めて重要であり、それが土壌中の害虫を殺すのに必要な最低限の時間である可能性があると推測する。「例えば、フィンランドは小国で急速に成長している一方、ボリビアは同じ小国であるものの全く成長していない。それには気候が関係しているのかもしれない。」マスターズ氏は述べる。実際、一時的な霜は農家に大きな利益をもたらす。寒さは虫を殺したり、その活動を停止させたりする。寒い気候は、土壌中の動植物の分解を遅らせ、それによって土壌はより豊かになる。霜は、春に向け地面が水分を蓄積するように促し、季節的な雨への依存を減らしてくれる。「寒さは富をもたらす」という議論にはいくつか例外がある。というのも、香港やシンガポールのような熱帯の裕福な場所があるが、彼らの富は、彼らが貿易上で優れていたため手に入ったものである。同様に、ヨーロッパのすべての国が裕福であるわけではない。かつての共産主義の植民地では、経済的な可能性は政治によって抹消されたのである。
D
マスターズ氏は、気候が国の富の(要素の一つではあるものの)主要な要素であることは決してないと強調する。国の富とは、一つや二つの要素では表せ切れないほど複雑なのである。彼は、政府を含む制度の有無や貿易ルートへのアクセスなど、気候を他の要因と組み合わせた上で、その国が成功するかどうか判断すべきだと考える。従来、経済学者は制度が経済に最も大きな影響を与えると考えていた、マスターズ氏は言う。というのも、制度が法や所有権という形で国に秩序をもたらしたからである。つまり、秩序さえあれば国が豊かになると考えられていたのだ。「しかし、制度を持っている国でさえ回避できていない問題もある。」彼は言う。「国は豊かになればなるほど、より良い制度を導入していくようだと感じる。気候を含む好ましい環境というものが、富の蓄積と統治機関の改善どちらもの手助けをしているのだ。」
E
これは、熱帯諸国が経済的利益を得られず、無一文のままであり続けることを意味するものではないと、彼はまた主張する。むしろ、豊かな国は諸外国への援助の方法を変えるべきであるのだ。援助とは、その国の行政の改善に向けてではなく、農業の改善や病気に立ち向かうための技術に向けて費やされるべきである。マスターズ氏はその一例を挙げている。「インドには、より良い灌漑が提供されたことにより、農業生産性と健康状態が改善された地域がある。」熱帯病に対するワクチンの供給や熱帯で育つ作物品種の開発のようなその他の対策も、その国の貧困の連鎖を断ち切るのに役立つのではないだろうか。
F
他にも、貧しい国と豊かな国の違いに理由を挙げる学者達はおり、何故、温帯諸国が最も豊かであるのか、その理由を人類学、気候学そして動物学の面から彼らは述べている。紀元前350年、アリストテレスは「寒冷気候に住む者には生気があふれている」としていた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校のジャレッド・ダイアモンド氏は、著書『Guns, Germs and Steel』の中で、大まかにいうとユーラシア大陸は東西に伸びている一方、アフリカやアメリカ大陸は南北に伸びていることを指摘している。つまり、ヨーロッパでは大陸全体で気候がほぼ均一であることから、作物は緯度に渡って広がるのである。最初に栽培植物化された作物の一つであるヒトツブコムギは中東からヨーロッパまで急速に広まった一方で、トウモロコシがメキシコから現在のアメリカ東部に広まるまでにはその2倍の時間がかかった。このように、ユーラシア大陸での、類似した緯度上で作物が容易に広がったことが、同大陸内で車輪や書き取りなどの他の技術がより早く普及したことと同じ理由によるものではないのかとダイヤモンド氏は推測している。また、この地域では、肉や羊毛、畑での動力ともなる牛や馬、羊などの家畜も盛んでもあった。このような自然の恩恵を受けたユーラシアは、経済的にも飛躍的な発展を遂げたのである。
G
アメリカの経済学者であるジョン・ギャラップ氏とジェフリー・サックス氏の2人も、国の地理的位置と富の間には顕著な相関関係があると指摘している。彼らは、赤道の北緯23.45度から南緯23.45度の間にある熱帯諸国は、ほぼすべてが貧しい国であると言及する。ハーバード・インターナショナル・レビュー』誌に掲載された論文の中で、彼らは「確かに、経済的発展に関しては温帯の特に北半球で、社会主義と戦争の惨害両方をうまく避けてきた国々が恩恵を受けているようである」と結論づけている。しかしマスターズ氏は、熱帯諸国は経済発展の見込みがないとも取れる地理学上での決定論に対し、注意を促している。「人類の健康や農業は、科学技術の研究によって改善することができる。」「従って、これらの熱帯諸国を残りの国々と線引きすることなどすべきではないのだ。」マスターズ氏はそう話す。「シンガポールを例に取ってみようじゃないか。裕福なことで知られているあの国は、そもそもエアコンがなければ裕福になってなかったであろう。」
何故筆者はサックスの最新の著書に対して複雑な感情を抱いているのか?
The writer expected it to be better than it was(筆者は、それがもっと良いものであったことを期待していたから)
この本の一番良い点は何か。
C. The autographical descriptions in the book(サックスの、自伝的な詳細が含まれているところ)
序文から、サックスは何を成し遂げようとしていたのか?
make terms with the new technologies (新しい技術を検査に導入すること)
トニー・チコリアの症例では、何が残念であったのか?
He refuses to have further tests. (チコリアが、更なる検査を受けることを拒否したこと)
著名な作家に好意的ではない評価をあげることは簡単なことではない
ベートーヴェンの悲愴のソナタは音楽疾患の治療に良いとされる
サックスは、彼の(音楽疾患の)患者を研究するに当たって、観察という方法と比べテクノロジーを使用した方法はそこまで重要でないと信じている。
何故音楽療法が過小評価されているのかは、理解し難い
サックスは、他の研究者による理論や発見物に対してもう少し懐疑的であるべきである
サックスは新しい検査方法を使うことをしきりに望んでいる
調和と旋律の間にある解離は、音楽が脳で局在化されていないことを裏付ける
音楽障害の治療の研究から、薬物治療の結果は一概ではないことが分かる。
サックスの患者の脳波スキャンは、彼らが音楽―脳に障害を患っているわけではないことを明らかにしている。
サックスは、新しい検査技術単体を用いて検査を行うことは良い事ではないと思っている。
ノーマン・M・ワインバーガーは、オリバー・サックスの音楽に関する最新の作品に対しレビューを残している
A
音楽と脳というのは、どちらも果てしなく魅力的なテーマであり、聴覚学習と記憶を専門とする神経科学者の私からすると、特に興味をそそられるのである。そのような背景から、神経学者であり多作の著者でもあるオリバー・サックスの最新作「音楽嗜好症(Musicophilia )」に、私は多大な期待を寄せていた。しかし、私のその本を読んだ後の感情は複雑なものであり、それを報告することに少しほど罪悪感を抱いていることをここに告白する。
サックス彼自身が、この「音楽嗜好症(Musicophilia )」の一番の見どころなのである。本書で彼は、彼の人生について深く記しており、非常に個人的な経験まで明かしている。ヘッドフォンを身につけ目を閉じ、アルフレッド・ベートーヴェンの悲愴のソナタを聴き明らかに魅了されている彼自身の姿がこの本のカバー写真になっている点に関して、その写真自体が既に、上手くこの本の内容を物語っているようである。サックスの文調は全体を通し安定しており、彼の学識の深さを示す一方で決して自惚れてもいるわけでもない。彼は自意識過剰でもなく、また自分を下手に売ろうとしているわけでもないのだ。
序文では、この本の趣旨が上手く説明されている。そこで、サックスは彼自身が 「音楽的知覚とイメージ、そしてそれらに関連する、複雑且つ多くの場合奇怪な障害に深く関わっている神経基盤に関する、目に余る勢いで急速に成長している研究」から得られた知見を読者に伝えたいと説明する。彼は、「観察というシンプルな芸術」と「人間の置かれた状況の豊かさ」の重要さについても強調している。彼の目的は「観察と描写を最新の技術と結びつけること」であり、「彼の患者や被験者の経験の中に想像力を働かせて入り込むこと」としている。読者は、40年間神経学に携わってきたサックスの、観察という「昔ながらの」検査方法と、最新のハイテク技術を駆使したアプローチ法の間での葛藤を見ることが出来る。彼自身、後者に意識を向けなければいけないことは十分に理解しているのだが、彼の熱意が前者の方にあることもまた事実なのである。
本書は、主に、実際にあった症例の具体的な説明に基づいて構成されており、そのほとんどはサックス自身が診療に携わった患者達である。現代の神経科学に関する報告についての簡単な議論は、本書全体に不規則的に散りばめられている。第一部の「音楽の憑依」は、雷に打たれたのち音楽への愛に飲み込まれた、元々非音楽的な中年外科医トニー・チコリアの奇妙な症例から始まる。彼は、それまで全く興味も留めてこなかったピアノの音楽を突然切望するようになったのだ。彼はピアノを弾くようになり、作曲すらし始めたのだが、それは彼の心の中の「奔流」の音符の中で(注:とても急である様を形容している)自発的に起こったことだった。どうやってこのようなことが起きたのだろうか?瀕死の出来事を経験した後の心理的なトラウマによるものだったのだろうか?それとも大脳皮質の聴覚領域に変化が生じたことが直接の原因なのであろうか?1990年代半ばという、丁度彼のトラウマとその後の音楽への “転換 “が起きた直後の時期に受けた脳波検査(EEG)では、まだ彼の脳波が正常であったことを示している。現在はより感度の高い検査が行われているが、チコリアはそれを受けることを拒否している。彼は彼が手にした音楽性の原因をあまり深く掘り下げたくないのであろう。残念なことではあるが。
第二部の「音楽性の範囲」はより幅広いテーマを扱っているのだが、残念なことに、その中のいくつかの章では、目新しいことはほとんど何も紹介されていない。例えば、5ページにも及ぶ長さのある第十三章では、盲目者は目の見える者よりも聴力が優れている場合が多いということをただつらつらと書いているだけである。最も興味深い章といえば、中でも特に奇妙なケースを紹介している章である。第八章は音を音楽として聴きとることができない「失音症」と、旋律を理解する能力は影響を受けることなく調和を聴きとる能力が極端に特異的に低下する「不調和症(訳不明)」が紹介されている。このような特異的な「解離」が、サックスが再録する症例の至る所に見られる。
サックスの手柄として称賛したいのが第三部の「記憶、動作そして音楽」で、そこでは音楽療法の中でも過小評価されている分野に、我々を連れて行ってくれる。第十六章では、 「メロディックイントネーション療法」が表現性失語症の患者(脳卒中やその他脳にまつわる事故後に、考えを口頭で表現することが出来なくなった者)をどのようにして、再び流暢に話すことが出来るようにしたかについて説明している。第二十章では、不自然な姿勢で固まってしまった、パーキンソン病患者や重度の運動障害を持つ人々をも動かした、音楽の奇跡にも近い力を明示している。科学者達は未だ、音楽がどのようにしてこのような効果を引き出したのか、説明出来ないままでいる。
神経科学と音楽の性質に精通していない読者には、「音楽嗜好症(Musicophilia )」は何か啓示に近いようなものに感じるかもしれない。しかし、本書は、サックスが詳述する現象の原因とその意味合いを追求しようとする読者にとっては、満足出来るものではないだろう。その一つには、サックスにとって実験について議論を展開するよりも、実際に診た患者の例を持ち出して話を進める方が気楽なようであることと、彼自身、科学的知見や理論を受け入れることに対しあまり批判的ではない姿勢をとる傾向があることが挙げられる。
音楽と脳の間にある奇妙な関係の原因について、まだ十分に理解されていないのは事実である。しかしながら、サックスは、彼や他の神経学者が行ってきた、慎重な観察と成功した治療法が果たして何を示唆するのか、そこにある謎を紐解くためにもっと色々と出来たのではないだろうか。例えば、調和を知覚する能力は失われるが旋律を知覚する能力は失われていない症例からも見て取れるように、音楽理解の構成要素の中に存在する数多くの特異的な解離というのは、脳内に音楽中枢が存在しないことを指摘している、などと言及してもよかったかもしれない。この本を読んだ者は、全ての精神機能は脳の局在化によるものだと信じる可能性が高く、折角の教育の機会を逃してしまったと言っても過言ではない。
もう一つ、読者がこの本を読んで導き出せる結論として、音楽が関連する神経学上の問題には「治療法」がない可能性が高い、ということである。薬物は、ある患者の症状を緩和し、別の患者では症状を悪化させる一方、同じ患者にプラスとマイナス両方の効果をもたらすこともある。挙げられる治療法はほぼいつも決まって、効果には個人差があるものの一般的に脳の興奮性を「弱める」とされる、抗てんかん薬である。
最後に、本書に記載されている多くの症例では、音楽と脳に纏わる症状を持つ患者が“ 正常”な脳波を持ち合わせていることが報告されている。サックス自身、一般的な神経学的脳波検査よりもはるかに高い感度で脳波を分析できる方法の中に、新しい技術が存在していることは認識しているが、その技術を使おうとしない。事実、彼は患者に対しては最大限の哀れみを示しているのだが、音楽と脳に纏わる障害の、新しい診断方と治療方をめぐる追求については緊急性を全く表していない。この点の欠如は、本書の序文での、新しい技術に頼りすぎることで「観察というシンプルな芸術が失われるかもしれない」と表現されたサックスの持つ恐怖を、思い起こさせる。しかし、彼はそれでも両方のアプローチを取ろうとしているようである。後は、神経学のコミュニティがそれに応えることを我々は願うのみである。