以下のURLから模試のGoogle Documentにアクセスすることが可能です。
デフォルトのGoogle Documentは「閲覧モード」です。ページ上部 [ファイル] から [コピーを作成] をクリックすることで編集可能になります。
PDE形式が必要な場合は、ページ上部 [ファイル] から [ダウンロード] をクリックして出力形式にPDFを選択することでダウンロードすことが可能です。
以下のURLから模試のGoogle Documentにアクセスすることが可能です。
デフォルトのGoogle Documentは「閲覧モード」です。ページ上部 [ファイル] から [コピーを作成] をクリックすることで編集可能になります。
PDE形式が必要な場合は、ページ上部 [ファイル] から [ダウンロード] をクリックして出力形式にPDFを選択することでダウンロードすことが可能です。
1820年代に入り、東北地方では超越主義と呼ばれる新しい知的運動が勃興した。ここでいう「超越」とは、自己の直感を得て、より深く現実を理解するために通常知覚している世界の更に上を目指すことを意味する。超越論者は、全ての人が合理的、感覚的経験を超えた世界について理解を得ることが出来ると信じていた。そんな彼らは、当時主流のアメリカ文化には批判的であった。彼らは、彼ら自身が経験してきた、他人と同じように行動することが奨励されていた時代を批判し、合理主義に対抗する個人主義の台頭を唱えた。冷徹で計算高い理性よりも感情を重視した文学運動や芸術運動がベースとなったヨーロッパのロマン主義もまた、特に個々の感情のその唯一性を祝賀するという面で、米国の超越論者に影響を与えた。
この運動の立役者として現れたのが、ラルフ・ワルド・エマーソンであった。彼は1803年に、ボストンで宗教家の家系に生まれた。父親が牧師を務め、1820年代にハーバード大学神学院を卒業した後は、父親の跡を継いだ。しかし、1831年に妻を亡くした後は、聖職を離れた。1832年のヨーロッパ旅行では、18世紀の、啓蒙思想の冷徹で厳格な合理主義を否定し、感情を重視するロマン主義の指導者たちと出会っている。
翌年帰国してからは、ロマン主義の影響を受けた思想について講演会を開くようになった。1836年には、人間は、都市や産業の世界で働くという日々の目まぐるしさの中ではなく、自然の中で、真の精神性を見出すことができると主張したエッセイ『自然』を発表した。1841年には、エッセイ『自己信頼』を出版し、アメリカの生活に根付いていると彼が信じていた大衆迎合を拒絶し、自分の頭で考えることを読者に促した。エマーソンは、強力な多数派が個人の意志を圧倒することに懸念を抱いていたのである。
エマーソンの考えは、アメリカの主流の生活に不満を持ち、より確かな精神的意義を求めていた博識の大人達の心に響いた。多くの作家が超越主義に惹かれ、新しい物語、詩、エッセイ、記事などを通じてその思想を表現するようになった。超越主義の思想は、大衆に広く読まれる雑誌やジャーナル、新聞を通じ、アメリカの思想や文化に行き渡ることができた。
エマーソンの考えに惹かれた者の中には友人のヘンリー・デイヴィッド・ソローも含まれており、彼はソローに自分の考えを書くよう勧めた。ソローは、超越した個人主義という超越主義の目標への達成に、自然の役割を特に重視していた。1848年に開いた講演会で、彼は、政府の不正に対し個人が立ち向かわなければならないと主張をする旨をテーマにしたが、これは彼が米墨戦争と奴隷制度に嫌悪感を抱いていたためである。1849年には、講義「市民的不服従」を発表し、読者に対して不道徳な政府を支持することを辞めるよう促した。
マーガレット・フラーもまた、超越論者として、また女性平等の提唱者として一躍有名となった。エマーソンやソローの友人でもあったフラーは、その他の当時の知識人とも交友関係を持っていた。ハーバード大学は、1973年まで学部生として男性のみ入学が認められる大学であったため、女性であった彼女は入学することが出来なかった。しかし、後にその知性の高さから、ハーバード大学の図書館の使用を認められた。1840年には、超越論者をターゲットにした雑誌『ダイアル』の編集者となり、後にニューヨーク・トリビューン紙の書評家として就職した。悲劇的なことに、1850年に彼女は40歳の若さでニューヨークのファイアー・アイランド沖の難破船で命を落とした。
一部の批評家は、強迫的な人間の行動によって引き起こされる破壊的な結果の問題点を指摘し、個人主義を強調する超越主義を批判した。ハーマン・メルヴィルの小説『モビー・ディック』では、登場人物のエイハブ船長が、彼の船を破壊し、彼から片足をも奪った、モビー・ディックと渾名される白鯨を一心不乱に殺そうと執着した物語を展開しており、それを通じて個人の執着によって引き起こされる問題を強調した。人気作家、評論家、また詩人でもあるエドガー・アラン・ポーは、彼の小説を「いわゆる超越論者の詩」と評した。超越主義に疑問を呈したこれらのアメリカの作家たちは、アメリカ生活の中での、個人主義と適合性の間の根底にある緊張関係を、我々に示している。
世界は今、食糧危機の真只中にある。その深刻さについては意見が分かれてはいるものの、ほとんどの人はこの危機は現実のものであり、世界人口の大部分の人々の健康と食料供給に大きな脅威をもたらす可能性があることを認めている。危機の根源は様々ではあるが、その中でも主に 2 つの要因がある。一つ目は、気象パターンの変化と異常気象である。簡単に言えば、以前は生産性の高かった多くの農業地域が、気象の影響でかつてのような肥沃さを得られなくなっていることが挙げられる。二つ目は、多くの農家が、作物を育てるよりもバイオ燃料を栽培した方がより良い収益を得られることに気付いたことである。その結果、貴重な農地の大部分がバイオ燃料のために使われ、作物を育てることに利用されなくなってきている。従来の農業は食糧危機の解決には不向きである。しかし、ハイドロカルチャーは潜在的な解決策であるかもしれない。
その名の通り、ハイドロカルチャーでは、通常土の中ではなく、栄養豊富な水の中で植物を育てる。水耕栽培は、最も広く知られているハイドロカルチャーの方法である。この方法は、一部の人には、農家のために持続可能な費用対効果の高い方法で大量の食料生産することを実現することにより、食糧危機の影響を軽減する多大な可能性を持つと考えられている。典型的な水耕栽培システムでは、作物は制御された環境下で、屋内で栽培される。植物は、水と成長に必要な栄養素が入った容器の中で育つ。これらの栄養素は、栽培する作物によって異なるものの、一般的には窒素、カリウム、リン、カルシウム、鉄、亜鉛、銅などの微量元素が含まれている。光源は、太陽が通常発するエネルギーを供給するのに使用される。
いわゆる静的システムでは、スケジュールに従ってまたは植物が必要とするときに、養液の変更・交換が行われる。連続フローシステムでは、養液が常に植物の根に向かって流される。これらは、一見技術的に洗練された形の農業のように見えるかもしれないが、ハイドロカルチャーの実験は、少なくとも1627年頃から科学者によって行われてきた。初期の実験では蒸留水ではなく、様々な栄養素を豊富に含んだ水で育てた方が植物は最もよく育つということが明らかにされていた。20世紀初頭までには、水耕栽培の概念はより広く知られるようになり、いくつかの商業的な適用例が存在していた。最近では、宇宙ミッションを担当するアメリカの政府機関のNASAまでもが、水耕栽培の研究を行っている。
水耕栽培は、従来の農業と比べても多くの利点がある。まず、屋内での実施が可能であるため、広い土地を必要としない。よって、水耕栽培の農場であれば、大都市の工業用倉庫やその近くに設置することができる。これにより、農作物を売る市場のはるかに近くに農場を設けることができるため、流通と輸送コストを削減し、従来の農業に比べ更に利点を得ることができる。 屋内では、農家の望む管理環境を作ることが可能になる。これは、天候が作物に影響を与えないだけでなく、カナダで栽培する熱帯野菜といったような、特定の地域では通常繁茂する可能性の極めて低い作物を育てることができるようになることを意味する。しかし、水耕農場に欠点がない訳ではない。その一例として、いくつかの主要な食品作物は水耕栽培では思ったように成長しない。ほとんどのハーブや野菜は育つが、ニンジン、ジャガイモ、トウモロコシのような重要な栄養源である野菜は、水耕農業に適していないか、または成長を促すのが難易である。また、米や小麦のような、主食作物を費用対効果の高い方法で育てるためには、多大なスペースが必要となるため、それらの作物の水耕栽培は現実的ではない。更に、水耕栽培でよく育つ作物のほとんどには、人間の健康に欠かせない栄養素であるタンパク質があまり含まれていないことも事実である。
これらの問題のうちのいくつかを解決する水耕栽培のバリエーションとして、アクアポニックスがある。基本的なアクアポニックスシステムは、層を2つ用いた様式の水耕栽培である。上層は、栄養豊富な水を使った水耕栽培で育つ植物が占める。一方、下層は、養魚場の一部として飼育される魚の水槽である。伝統的な養殖では、農家は魚が住んでいる水を洗浄するために時間とお金を費やす必要がある。さもなければ、魚の廃棄物が水中に濃縮し、魚の健康状態が犯されることになるからだ。アクアポニックスの実に巧妙な点は、魚の廃棄物をフィルタリングして廃棄することを行わず、それ自体を植物の栄養素の源として利用することが出来ることである。このように、システムを“閉じる”ことによって、アクアポニックスでは、水耕栽培と同様の種のハーブ、果物、野菜を生産することが出来るだけでなく、高品質のタンパク質である養殖魚も生産することができるのである。
組織心理学の起源は、20世紀初頭にまで遡る。時折、産業心理学とも呼ばれる組織心理学は、様々な仕事や組織の中で人間がどのように働き、どのように相互作用するかに主に焦点を置く。組織心理学の分野が実験科学として発展したのは、20世紀後半になってからであった。その他ほとんどの学問分野とは異なり、労働者の心理と生産性の研究が、労働者の幸福と会社の利益率の両方の面にプラスの影響を与えることをビジネスリーダー達はすぐに理解した。1900年代初頭の主要な組織心理学者たちはすぐに、自分達が教室の外や工場に出向き、研究を行っていることに気が付いた。
1929年から1932年まで、エルトン・メイヨー(1880―1949)と彼の同僚は、シカゴ近郊の工場、ウエスタン・エレクトリック社のホーソン工場で一連の研究を始めた。この長期的なプロジェクトでは、対人関係、モチベーション、および組織力学におけるより複雑な問題を研究するために、もともとあった産業心理学を、通常の従業員選択や人員配置の用途を超える、延長した形で用いた。これが、組織心理学の始まりである。
後の研究者による発見物の分析により、ホーソン効果という言葉が生まれた。ホーソン効果とは、研究者や監督者により、注目されたり、監視されたり、注意を払われたりする環境下では、個人のパフォーマンスが向上することを示すものである。当初の研究者が発見したことは、照明レベルなどの変数の如何なる変化も生産性の向上につながるということであった。 これは、明るい照明から暗い照明に戻るなどのマイナスの変化であっても当てはまった。 ただし、注意が薄れると効果は薄れていった。ホーソン効果の概念は、多くの分野で重要な実験的考察事項であり、実験においてコントロールされなければいけない要素でもあるため、現在でも扱われている。
フレデリック・テイラーは、誰かが職場を再設計できれば、会社の生産性および労働者の賃金両方の増加を望めると見通したエンジニアだった。1911年に、彼は「科学的管理の原理」を出版し、持論を書内で綴った。本では、時間動作研究を元に、管理様式、人員選択および訓練、また仕事そのものの考察がなされている。
テイラーの理論を実践したものの一つに、重い鉄の鋳塊(重い鉄、金、銀などの金属の塊)を扱う労働者の例があった。テイラーは、労働者が休息を取ることで、生産性が上がることを示した。この休息方法により、労働者が通常より少ない疲労を感じながらも、1日に動かす鉄の量を12.5トンから47.0トンまで増やすことができた。これは、労働者の生産性を向上させただけでなく、トン単位で支払われる労働者の賃金も同時に増加させた。それは、同時に会社のコストを1トンあたり9.2セントから3.9セントに削減したことにもなる。このような生産性の向上にもかかわらず、テイラーの理論は、労働者を搾取し必要な労働者の数を減らすことにつながると、多くの批判を受けた。また、労働者は本来怠け者であり、テイラーの科学的管理手法は労働者の幸福をあまり気にせずに生産性を最大化することが目的であるという意見も出てきた。彼のアプローチは、労働組合や労働者に同情的な人々の非難の的となったのであった。
ギルブレスは、生産性を向上させる方法を見つけようと努力したもう一人の影響力のある産業・組織心理学者である。彼女は、時間動作研究を用い、タスクを実行するために必要な動作の数を減らすことにより、労働者をより効率化させようと考えた。彼女は、これらの方法を産業界だけでなく、家庭や仕事場、店舗などにも応用した。従業員の疲労や時間管理によるストレスを調査し、多くの従業員がお金や仕事のやりがいに意欲を燃やしていることを発見した。1914年には『管理心理学:決断し、教え、そして無駄を最小限に抑える方法を取り入れる心の働き』を著し、現代の経営の母として知られている。冷蔵庫の扉の内側にある棚や、ゴミ箱の蓋を足のペダルで操作するというのは、全て彼女のアイディアによるものなのである。
今日、産業心理学と組織心理学は、研究と実践において多様で奥深い分野である。この特定の研究分野の心理学者は、従業員の心理についての洞察を得ることで効果的な職場環境を作ろうと努める企業や大企業から引っ張りだことなっている。