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[1] ウイルスからヒトの遺伝子まで、事実上どんな種類の生物の遺伝子でも植物に挿入することができるようになり、それらの加工が施された植物はトランスジェニック植物として知られるようになった。現在では、世界中で約1億900万エーカーのトランスジェニック作物が栽培されており、そのうちの68%が米国内で栽培されている。最も一般的なトランスジェニック作物としては、大豆、トウモロコシ、綿花、キャノーラが挙げられる。多くの場合これらの植物は、除草剤グリホサートに対して耐性を持つか、またはBt毒素と呼ばれる昆虫抵抗性タンパク質を生成する、遺伝子が含まれている。
[2] トランスジェニック作物の支持者は、農家がトランスジェニック作物を生産するにあたり、より有害性の低い化学物質を少量のみ使用すればいいため、環境に優しいことが利点であると主張している。例えば、Bt綿(Bt毒素を生成するトランスジェニック綿)においては、殺虫剤の使用量が21パーセント減少したという報告がある。さらに、雑草の防除にグリホサートを使用する場合、他の、より強力な持続性除草剤を使用する必要がなくなるのである。
[3] しかし、遺伝子組み換え作物の反対派は、遺伝子組み換え作物がより大規模で安全に栽培され始めるためには、明らかにされなければならない多くの未解決の疑問がまだあることを提示している。そのうちのいくつかは、Bt植物が、遺伝子組み換え作物を消費する益虫、ミミズ、鳥などの非標的生物に与える影響への懸念である。例えば、Bt トウモロコシ畑の近くに生える乳草を餌とするオオカバマダラの毛虫は、乳草の葉に落ちたトウモロコシの花粉を食べる。実験室で行われた研究によると、イモムシがBt花粉を食べると死んでしまう可能性があることを指摘している。しかし、フィールドテストは、Bt トウモロコシがオオカバマダラに害を与える可能性は低いと示している。尚、農薬(Bt植物の栽培の代用)の散布は、標的外の昆虫に広範囲に渡り害を及ぼすことが実証されている。
[4] その他にも、除草剤耐性遺伝子が、あらゆる雑草の個体群に入り込む可能性についての疑問もある。時折、作物植物は雑草の親類が生植している地域で栽培されることがある。もし作物植物が雑草の親類と交配して繁殖すれば、この除草剤耐性遺伝子が子孫に引き継がれることになる。このようにして、耐性遺伝子は雑草の個体群に入り込むことができる。そうなれば、農家はもはやグリホサートを使って雑草を処分することなどができなくなってしまう。このシナリオは、作物の植物の近くに雑草の親戚が生育していない場合には、そうそう起こり得ないであろう。しかし、場合によっては、それが深刻な問題になる可能性がある。例えば、キャノーラとマスタード雑草種は交配しやすく、その際にキャノーラの除草剤耐性遺伝子がマスタード雑草種に入り込む可能性がある。トランスジェニック植物を長期間にわたって大規模に栽培すると、進化が起こることが分かっている。特に懸念されるのは、Bt毒素に耐性を持つ昆虫個体群の発生である。この農薬は、昆虫抵抗性の個体群を発生させることなく、すでに何十年にもわたって植物に適用されてきた。しかしながら、トランスジェニックBt植物は、生育期を通して全組織で毒素を排出する。そのため、この毒素に弱い遺伝子を持つ昆虫はすべて死滅する。そうなると、遺伝子的に抵抗性のある昆虫だけが生き残り、その個体群が永続していくことになる。これらの抵抗力がある昆虫同士が交配した場合、 Bt の毒素の存在下で生き延びることのできる子孫が高い割合で生み出される。農家は、Bt作物の昆虫抵抗性の発達を遅らせようと、実に様々な方法を使っている。その一例として、一部の農家では、B t毒素への抵抗が無い昆虫達に避難場所を提供しようと、非トランスジェニック用の境界線を設けて畝を植えている。これらの昆虫は、Bt毒素への感受性が個体群に残ることを可能にしてくれるかもしれない。
[5] 現在使用されている遺伝子組み換え作物において恐らく最も深刻な懸念は、農家が持続可能な農業、つまり長期的そして継続的に自然資源を再生する農業から遠ざかってしまうことである。 遺伝子組み換え作物は、少なくとも表面上では、管理者の選択を減らすことで農業を単純化するものである。グリホサート抵抗性作物を植えると、農家はそのシーズンにその除草法のみを使用することになり、それは恐らく他の除草剤やその他の雑草防除方法すべて排除することを意味する。Bt トランスジェニックを使用している農家は、害虫を制御するために、有益な昆虫と農薬を折良く使用するという、統合的な害虫管理の慣行に従う必要性を感じていないのかもしれない。より持続可能なアプローチとしては、非トランスジェニックコーンを植え、生育期を通じて農地を監視し、必要な時だけ農薬を散布することではないであろうか。
[1] アフリカ北部に位置するナイル川は、全長約6650km(4132マイル)に渡り、地球上で最も長い河川として知られる。アレクサンドリア付近の地中海に注ぐナイル川は、ウガンダのビクトリア湖から流れる白ナイル川と、エチオピアを流れる青ナイル川の合流地点で形成されている。ナイル川流域は古代文明の栄枯盛衰の舞台であり、その功績の一部であるギザの大ピラミッドやスフィンクスは現在も残っている。
[2] ナイルの段丘に沿ってそして砂漠のオアシスにも見られる岩の彫刻は、紀元前10世紀に元の狩猟採集と漁師中心の文化が、穀物を挽くこと中心の文化に取って代わった証拠を提供している。これは、気候が変化し、現在のエジプトの牧草地で過放牧が起こったことにより、環境が変化したことも原因の一つであった。したがって、初期の部族はナイル川に移住することとなった。紀元前6000年頃には新石器時代の文化がナイル渓谷に根付き、上エジプトと下エジプトの両方でそれぞれ独立したいくつもの文化が発展した。これらの人々は遊牧を辞め、より中央集権的な社会の中で安定した農業経済を発展させた。紀元前3500年には、これら古代エジプトの人々は、現在知られている中で恐らく人類最初の民族国家を形成した。
[3] この偉業の鍵となったのが、主に、ナイル川が人々に与えた安定性と安全性である。ナイル川の流域は毎年氾濫していた。つまり、雨季にはナイル川の堤防が水で膨れ上がり、それらの水が引いた頃にはその場所に土壌の肥沃な堆積物が残されていたのである。このような理想的な農業条件を持った古代エジプト人は、当時のどの地域よりも最も安定した食糧源を開発することができた。また、地理的な中心性が、この地域の人々の組織化を後押しし、それは入植地がより広大な土地面積に広がっていた場合とは比較にならないくらい容易であった。
[4] 古代エジプトの持つ農業における季節性と食糧貯蔵の進歩により、人々が余暇に費やせる時間は増えた。少なくとも裕福な階級には余暇の時間があり、下層階級は頼りになる労働力の供給源となった。食料資源が豊富なこの組織化されたシステムの中では、豊かな文化が栄えた。ピラミッドやファラオの精巧な墓はよく知れ渡っているこの文化の象徴であるが、その他にも暦や文字、洗練された建築(特に神殿)や神々のパンテオンを含む複雑な信仰体系など、数え切れないほどの功績がある。
[5] 実際、この地域に住む人々はナイル川そのものを神として崇拝していた。彼らは川を「生命の父」や「全人類の母」と呼び、その川無しでは彼らの文明は成り立たなかったことを認めていた。川は、農業的、文化的な恩恵をもたらしただけでなく、重要な輸送ルートとしても機能していた。商人は川の上流から下流に商品を運ぶことができ、川沿いにいる全商人は、地中海とその海周辺に分散している他の文明にアクセスすることができた。また、ナイル川にはパピルスという植物が生えており、エジプト人はそこからパピルス紙と呼ばれる紙を作っていた。半永久的な文字の記録を可能にし、その内の一部は現在も残っているのであるから、この植物の人類史における重要性は評価してもしきれない。これらの用途以外にも、ナイル川は飲料水(人間、動物共に)や洗濯に利用されていた。
[6] ナイル川は、現代のエジプトでも中心的な役割を果たし続けている。エジプトの住民の約半数がナイル川沿いの都市部に居住している。過去125年間で、飛行機や鉄道の登場によりナイル川の交通手段としての重要性は薄れてきたとはいえども、その川は常にエジプト人のアイデンティティーの中心であり続けている。ナイル川の美しさに心を奪われた訪問者は、必ずまたその地に足を運ぶと言われているように。
[1]13世紀の初め、狩猟採集を行う遊牧民の部族がメソアメリカに到着した。メソアメリカとは、現在我々がメキシコと呼ぶ地の南中心部のことを指す。そこに住む人々はアステカと呼ばれていた。テスココ湖に到着した彼らは、サボテンの上に止まっている鷲を見て、それを定住のしるしとして受けとったと言い伝えられている。その300年後、とても見事に建設された首都テノチティトランから、彼らは数百万人の人口を支配する強大な帝国を確立した。アステカの農業における工夫が、これを部分的に実現可能にしたのである。彼らは、車輪や荷物運搬用の動物から得られる便利さには余り恩恵を感じていないようであったが、中央メキシコの湖の周辺土地をうまく利用し、様々な方法を使って人々の暮らしを支えようと努めた。
[2]天水栽培は、人類最初の、そして最も単純な農業の形態として知られている。この方法では、農業用に確保された土地の一部のみで耕作を行う。未耕作地を休耕地とし、その場所に雨水をためることで、将来の作物用に土壌を活性化させる補助に利用した。これにより、過剰栽培による土壌の養分の枯渇を防ぐことができた。しかし、帝国の人口が増加し、より大きな収穫が必要とされるようになると、この方法は放棄されてしまった。
[3]伝統的な方法を使っての農業が難しい丘陵地、特に高地では、棚田が使用された。丘陵地の輪郭に沿って、何段にも重なる石の壁が丹念に作られ、これらの壁によって形成された各層の地表は平らにされ、階段状、または広く段々になった土壌の配置を作り出した。このようにして、傾斜地は農業に適した平坦な棚田に生まれ変わった。棚田は、状況に応じて様々なタイプのものが使用された。急な傾斜地では、先に述べたように、石垣のある丘陵地の等高線状の棚田が使われた。緩やかな斜面では、半棚田が作られた。これらは、石の代わりにリュウゼツラン属の植物が使用されたため、余り頑丈ではない壁で形成されていた。最後に、最も急峻な場所では、交差水路式の棚田が使用された。
[4]アステカが、帝国の主に渓谷地域で使用した第三の農業方法は、灌漑農業であった。これは、ダムや水路を利用し、天然の湧水のある場所から畑へと水を流すことにより実現した。畑の水量を自ら調節できるようになったことは、作物が雨量に依存しないことを意味したため、農業の成功は彼ら自身が握っていると言っても過言ではなくなったのである。それにより、乾燥した年であっても人々は食料を収穫し確保することが出来たのである。実際、アステカが灌漑農業を発明したのではなく、彼らはすでに導入されていたシステムをさらに発展させただけなのである。この分野でのアステカの功績は、灌漑農業を全く新しいレベルに引き上げた。彼らは、複雑な運河のネットワークを構築し、さらにはクアハティトラン川の一部の流れの向きを変えることにより大きな農地の一部の区画に水を供給することまでおこなった。
[5]アステカの農地すべてが、徹底した水の管理を必要とする地域にあったわけでもなかった。いくつかは湖周辺の湿地帯にあり、そこは湿りすぎて伝統的な農業を行うのには適していなかった。これらの地域では、アステカがそれでこそ有名で知られる、農業用語で言う「チナンパ」を作成した。チナンパは、沼地や湖の底に泥と植物を交互に敷き詰めて作られた。十分な層を敷き詰めて、水面から約1メートル上に盛り上がったベッドを作った。これらの隆起したベッド(チナンパ)は、幅2〜4メートル、長さ40メートルにもなった。チナンパは、狭い水路で区切られた列に建てられ、作物を育てるためにアステカ人はカヌーを使い水路に沿って移動していたという。チナンパは水中に作られ、また一部は有機物からできていたことから、信じられないほど肥沃な地であった。毎年平均して7つの作物が収穫でき、1ヘクタールあたりの食糧量は驚くべきものであった。事実、彼らは他の者に販売することができるほど余剰な食料を収穫することが出来たのである。