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[1]農業革命は紀元前2000年から6000年の間に起こった。気候変動の影響により、人々が狩猟中心の生活から採集や農業中心の生活に移行したのだと考えられている。約1万年前、人類の一部のグループは動物を飼育し、栽培植物を育てるようになった。その後1000年の間、狩猟採集は引き続きおこなわれていたものの、ほとんどの人が食料生産者となった。農業革命とは、人類の活動の中で食料生産が広く行われていた歴史上の期間のことを指す。それは、数世代に渡り食料採集が食料生産へとつながったため、一定の期間をかけて発生した。その過程とは、食糧や蓄えを探し回っていた人々が、種を撒いたり、作物を育てるために雑草を刈り取ったりして、彼らが食用に使用する作物を育てるようになったことが始まりと考えられている。非定住者達がこのような行動をとったことも大いに考えられるが、恐らく一定数はそれらの作物を長期間に渡り生産するために定住していたのではないかと考えられる。
[2]特殊な石器が発見されたことは、新しい食料生産方法があったことを示している。その石器とは、土地を耕すための、磨かれたり研がれたりした石の頭、草を切るための骨や木製のハンドルに埋め込まれた鋭い石のチップ、そして穀物生産のための石臼である。初期の頃の農民は火を使って低木を伐採していた。樹木を燃やして開拓地にし、灰は天然の肥料として使用された。
[3]時の流れとともに、採集者たちは食用栽培用に収穫量の多い植物の種族を選出していった。中東で発見された、農業に関しての最古の証拠には、紀元前8000年には小麦と大麦が栽培されていたことが記録されている。農民は肥沃さを維持するために、穀物と、レンズ豆やエンドウ豆などの豆類を交互に栽培するようにした。徐々に、家畜化された植物が中東から他の地域にも広がり、作物や技術の交換等も行われた。しかし、大半の国では、農業は各国独自に発展したと考えられている。
[4]北アフリカにおける最古の食料生産の痕跡は、紀元前8000年のイーストサハラにまで遡る。小麦、大麦、ヤギ、羊の飼育が明らかになっており、気候がより乾燥した紀元前5000年までには、ナイル渓谷へ農業活動が移動していたことが分かっている。ギリシャでは紀元前6000年頃から農業が始まり、中央ヨーロッパでは紀元前4000年頃から農業が始まっていたようである。その後1000年の間に、ヨーロッパではより多くの森林が伐採され気候変動が起きていたことから、その地ではそれと同時期に農業が更に広まったのであると考えられる。紀元前2600年までには、牛引きすきが中央ヨーロッパで使用されていた。地中海地域は、多くの作物や農業技術を誇っていたようである。南サハラでは国産穀物が好まれ、アフリカ東部では小麦と大麦が好まれていた。中東と赤道付近の西アフリカでは、ヤムイモが初期の国産作物となった。中国と北インドでは、紀元前1万年から5000年の間に国産米の栽培が始まった。ヒヤシンス豆、緑と黒のひよこ豆の栽培は紀元前2000年にインドで始まった。
[5]メキシコのテフアカン谷では紀元前8000年以降、狩猟から食料生産への移行に伴い、トウモロコシの栽培が始まった。ペルーではジャガイモやキヌアなどの食料生産が始まり、その他のアメリカ大陸の地域では、トマト、ピーマン、カボチャ、ジャガイモ等の栽培が行われた。根菜類のキャッサバは紀元前1500年以降に主食となり、カリブ海に広まっていった。これと同時期に、狩猟と牛乳やエネルギー供給の両方を目的として、動物の家畜化が始まった。
[6]紀元前7000年以降、中東で発見されたガゼルの骨の数が減少したことからも分かるように、動物の狩猟は減少した。しかし、ガゼルに代わる羊やヤギが登場し、人々は肉を消費し続けた。やがて、肉だけでなく被毛や乳をとることも目的とし、特定の品種の動物が飼われるようになった。動物の糞は肥料として利用された。インドでは、紀元前3000年以前から、牛、ロバ、水牛、ゼブオ、馬、ラクダ、鶏そして豚などの原生種は家畜へと進化していった。飼いならされた動物は、穀物農家の農業サイクルに欠かせない存在となった。アメリカでは、リャマは肉とウールを与え、七面鳥やモルモットは肉を供給した。
[7]結論として、食料生産の段階的な採用により世界はいくらか変化した。農業により人口は徐々に増加し、恐らく紀元前5000年には一千万人、更に紀元前1000年には五千万人、そして一億人にまで増加していった。
[1]土壌の形成には、生物が重要な働きをしている。土の中に生息する多くの動植物は土中のミネラルを利用し、土壌の運搬(移動)や通気に役立ったり、浸食から土を守る手助けをしたりする有機物を生成する。土壌に生息する様々な種類の生物が、土壌の化学的・物理的特性に大きな影響を与えている。実際、世界中で見られる成熟土壌では、この重要な自然成長が、土壌の特性に最も直接的な影響を与えていると考えられている。このような理由から、土壌科学者は、その地域の土壌がどのような種類の植物相を保持しているかを理解するだけで、その場所の土壌の属性についてかなりのことを理解することができる。したがって、特徴的な植生を持つ草原地帯やツンドラ地帯にも成熟した土壌があることになる。
[2]土壌植生の量と総重量は、一般的に土壌動物相のそれを上回る。飛び抜けて、土壌に生息する植物の中で最も一般的かつ最小のものは、細菌である。好ましい条件下では、100万以上ものこれらの小さな単細胞植物が、土壌の各立方センチメートルに生息することが出来る。バクテリアは他のどんな生物よりも優れており、岩石や他の土壌母材が徐々にではあるが土壌に規則的に変質していくことを可能にする。微生物の中には、天然酸を産生するものがあり、その酸により即座に土壌母材は分解され始め、植物栄養素が放出される。微生物の2つ目のグループは、自然の廃棄物(岩くずの堆積物)を分解して腐植土(栄養豊富な有機物)を形成する。3つ目のグループは、マメ科植物と呼ばれる根系の植物相に生息している。これに含まれるのは、アルファルファ、大豆、エンドウ豆、クローバー、ピーナッツなどの、多くの広く知られている農作物である。マメ科植物は、より肥沃な土壌作りの手助けとなる、空気中の遊離窒素を取り込み、窒素化合物を作り出すことで植物相の新陳代謝を促す、いわゆる窒素固定と呼ばれる工程を可能にする細菌を、根小節(根の小さな膨らみ)内に宿している。
[3]土壌の発達に重要な役割を果たしている生命体は他にもいる。例えば、少数の細菌のみ生き残ることができる、やや酸性気味の土壌では、しばしば菌類が有機物の主な分解者として現れる。より複雑な、植生における多様性もまた土壌の開発には不可欠である。樹々、草、その他様々な種類の植生は、土壌の腐植土の大部分を提供する。これらの植物が分解するときに放出されるミネラルは、他の土壌生物のため同様に、植物相の後世のために不可欠な栄養供給を構成している。さらに、木材は土壌の奥深くに根を張り、地表のはるか下からビタミンを運搬することができる。木が葉を失ったり、枯れて腐敗したりすると、土壌はビタミンで満たされる。最後に、木材は水の流出を遅らせ、根のシステムで土壌を維持し、結果的に浸食を防ぐという不可欠な機能を果たしている。傾斜地での農業利用に伴う侵食の増加は、主に自然植生の保護層が無くなることにより引き起こされているのだ。
[4]動物もまた、土壌組成に影響を与える。バクテリアに相当する動物は原生動物である。これらの単細胞生物は、動物界で最も一般的に見られる類であり、バクテリアと同様、一度に100万匹以上が土壌―立方センチメートルあたりに生息することができる。原生動物は有機物を食べ、その分解を促進する。ミミズは恐らく、土壌に生息する中で最も重要な生物であろう。まずまずな好条件下であれば、1エーカーの土壌に100万匹のミミズ(総重量450kgを超える)が生息しているはずだ。ミミズは大量の土を取り込み、化学的に変化させ、糞塚と呼ばれる有機物として排泄する。この糞塚は、驚異的な天然の肥料となる。また、ミミズは土を縦横両方面に混ぜるため、通気性や水はけを良いものにする。
[5]好ましい気候と土壌条件の下では、アリやシロアリなどの昆虫も多数生息している可能性がある。さらに、土壌に多大な影響を与えるのに十分な数の、ネズミ、ホリネズミ、モグラ、プレーリードッグなどの地元の哺乳類が存在していることもある。これらの動物のほとんどが、無意識的に土壌を処理している。その結果、土壌は空気を含み、分解され、施肥されそして地表にもたらされ、土壌の発達を促進するのである。
[1]シュメール文明は、アレクサンダー大王が地中海と中東周辺の土地を広範囲に渡り征服する何世紀も前から、そしてローマ帝国が古代最大の権力として知られるようになる更にずっと前から存在していた。シュメール文明は不可解な謎に包まれたままで、世界中の歴史家を困惑させ続けている。それは恐らく、南メソポタミアの歴史的な地域で確立された最初の都市文明であった。シュメール自体は、チグリス川とユーフラテス川の下流域の氾濫原にあった「文明の揺りかご」と呼ばれる地域に発していた。シュメール人は紀元前4000年頃に出現し、都市国家として組織されていた。シュメールの重要な都市国家のいくつかは、後々ペルシャ湾に吸収された土地にあった。事実、多くの歴史家がシュメール文明の起源の鍵があると考えている場所は、ペルシャ湾自体なのである。
[2]最大の謎の一つは、シュメール人の正確な起源である。多くの歴史家や考古学者の間では、シュメール人の故郷がどこにあったのか意見が分かれている。古代シュメールの文献には、彼らの故郷が「ディルムン」と呼ばれる場所であることが記載されているが、その場所は未だ不明のままである。シュメール語は、膠着言語と呼ばれる、単語の中核的意味に接辞を加えて単語を形成する言語である。トルコ語、ハンガリー語、フィンランド語またイヌイット語などもその言語部類である。しかし、シュメール語に隣接する言語は、その形態をほとんど共有していない。さらに、シュメールのパンテオンに登場する多数の動物神は、牧畜の歴史を示唆しているが、彼らの起源の場所は示していない。歴史家は一般的に、ディルムンはペルシャ湾の島、おそらくバーレーンの近代国家である可能性が高いと結論づけている。これまで、古代シュメールをペルシャ湾のどの島にも結びつける遺跡は発見されていない。この種の遺跡は、シュメール人の祖先の居住地を明らかにする上で極めて重要なのである。したがって、遺跡が見つからなければシュメール人の祖国は不明のままということになる。
[3]シュメール文化は、聖職と神殿の生活を中心に成り立っていた。都市国家は神殿を中心に組織され、聖職者ではない者は職人か農民のいずれかであり、彼らは神々をなだめることに仕事と生活を捧げていた。災害、干ばつ、そして災難は、その土地の神が他の神々に圧倒されたことが原因とされていた。その結果、聖職者は権力を維持し、シュメール人の日常生活を支配していた。最後に、シュメールの都市国家内のその他のカーストとして、都市を守るために配置されたのが戦士だった。時が経つにつれ、聖職者の支配力が損なわれ始めたことにより、戦士はシュメールの中でより権威ある強力なものになっていった。その結果、徐々に、シュメールはより戦士主導の文明に向かって変化していくことになった。
[4]紀元前4000年から2000年の間、セム系移民は定期的にシュメールの領土に移動し、ゆっくりとシュメールに押し寄せた。紀元前2000年には、シュメール都市国家は戦士がより強力になったことにより、防衛同盟を形成することを余儀なくされた。それにより、聖職者のイメージは損なわれることになった。また、戦士の重要性が高まったことがシュメール文明内での力の移動を扇動し、後に初代王の誕生につながった。最後に、紀元前2000年頃、アッカドのサルゴン王がシュメール人を征服し、その結果、世界初の多民族帝国が誕生した。アッカド帝国もまた、シュメール人と共通の特徴に基づいて構築された初代文明と考えられている。実際、失われたアッカドの都市は、シュメール人の職人によって建設されたのではないかと噂されている。
[5]要するに、シュメール文明を理解する上での歴史家にとっての課題は、シュメール文明についての文献や情報のそのほとんどが、他の文明の著作に由来するということである。古代のバビロン人でさえ、彼らの時代には既にシュメールは古い文明であると考えていた。考古学者が、シュメール人の歴史を解き明かす手がかりを未だ探しているにもかかわらず、これらの古代人に関するその多くの情報はまだ知られていない。結論から言うと、シュメールは海の底に都市を持つ古代文明であり、他の古代文明からも参照されている通り、その隠された過去を知る手がかりはほとんどないのである。