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[1] アンデス文明とは、コロンビアの高地からアタカマ砂漠までの地域で発達した様々な文化的集団のことを指す。スペインの征服に先立ち、インカ帝国はアンデス文明から発生した最後の主権国家であった。しかしながら、この最後の帝国の構成員は、あまり帝国に忠実ではなかった。征服されていたチャチャポヤのグループは、インカに対して敵意持ち続けていた。その結果、インカの貴族階級はスペインとの紛争の間、彼らの王国に難民を提供することを拒否していた。さらに、現地の文化もまた、異なる言語、習慣、人々の寄せ集めであり、それらが完全に統合されることは無かった。これにより、そこから発展した様々な集団は、それぞれ異なる経済システムを持つようになった。例えば、チムー族は商業にお金を使っていたが、インカ族はそうではなかった。もっと言うと、インカ帝国の経済は物々交換と贅沢品や労働力への課税に基づいていた。インカの税制は、老人や足の不自由な者には頭のシラミという形で、象徴的な貢物を徴収することで対応していたとまで言われている。しかし、彼らの洗練された技術と広大な領土にもかかわらず、インカの最後の砦は1572年にスペインの征服者によって失われた。
[2] インカ帝国は、コロンブス到達以前のアメリカで最大の帝国であった。彼らは、南米西部、アンデス山脈、ペルーの大部分、エクアドル、ボリビアの西部と中南部、アルゼンチン北西部、チリの北部と中北部そしてコロンビア南部を包含する領土を持つ、帝国を構築することに成功した。帝国の行政、政治、軍事は現在のペルーにあたるクスコに置かれていた。これは、帝国が13世紀初頭辺りにペルーの高地を起源としていたためである。とはいえ、インカは殺伐な征服から平和的な同化まで、さまざまな方法で領土を拡大し、旧世界秩序の歴史的帝国に匹敵する国家へと発展させていった。
[3] 例えば、チムー族はインカ帝国に同化した民族のうちの一つである。具体的には、インカ帝国の支配者であったトゥパック・インカ・ユパンキの作戦下で、スペイン人の到着のわずか50年前に征服されたのである。チムー族は元々チモールの住民であり、その首都は現在のペルー、トルヒーリョのモチェ谷にあるチャン・チャンという街にあった。さらに、考古学的資料によると、両文化で見られる黒い陶器や貴金属を使った複雑な作品の特徴に共通点があることから、チモールはモチェ文化から発展したのではないかということが示唆されている。 また、スペインの歴史家たちは、チムー族がインカ帝国に同化する以前に生きていた人々をもとに、チモール文化についての報告を記録することができた。
[4] 加えて、ムイスカ族は1537年にスペイン帝国が征服した際に遭遇した民族である。この集団は、現在のコロンビアで、中央高地のムイスカ連邦を形成した。ムイスカのチブチャ語を話す人々は、フンザ派(トゥンハ)とボコタ派の2つの政権の連合体により構成されていた。フンザ派は統治者サケに属する北部地域出身で、ボコタ派は統治者シパに属する南部出身である。両派は現在のクンディナマルカとボヤカの高地、特にコロンビア東部山脈の中央部に位置していた。
[5] インカ帝国の公用語はケチュア語であった。インカ帝国はタワンティン・スウユと呼ばれていたが、これを翻訳すると「4つの地域」または「4つの邦」という意味になる。インカ帝国に征服された様々な人々によって話されていた他の多数の言語がこの時代には存在し、その結果、何百もの現地語とケチュアの方言をも話されていた。宗教運動は、地元の神聖なワカス(偶像)を中心とし、様々な崇拝形態で構成されていた。帝国内では、多くの地元の崇拝形態が残っていたが、インカの指導者たちは太陽神であるインティの崇拝を奨励し、パチャママのような他のカルト押し退いて、インカの主権を押し付けていた。さらに、インカは王であるサパ・インカを「太陽の子」であるとみなしていた。古代文化によく見られるように、君主は多くの権力と影響力を人々に与え、更に君主が神格化されていくことで、生ける神とみなされるほどであった。1572年にスペインの支配がインカ帝国に取って代わり、アンデス山脈に住んでいた人々の豊かな文化は制圧され、これらの文化的・宗教的特徴の多くが形を変えていった。
[1] 言語は人類にとって最も重要な能力の一つであると同時に、最も軽視されている研究分野の一つでもある。これは科学界の、言語の起源に関しての長年の信念と態度に起因している。言語の起源を研究する上での最大の課題は、経験的証拠の欠如である。その結果、研究者や学者は、他の研究分野に基づいた推論に制限されてしまうのである。例えば、人間と他の動物のコミュニケーションを比較するとき、研究者は化石記録や考古学までをも参照にする。さらに、言語の発展とその起源に関する理論は、対照的な考えと憶測によって特徴づけられている。
[2] 言語の起源と進化に関する経験的証拠の欠如は、この研究分野における最初で最古の壁である。早くも1866年には、パリ言語学会においてこの分野の議論や話し合いは禁止されていた。そのため、この分野の研究は認められず、避けられていた。20世紀後半になって言語学が再び活発になり、1990年代には言語学者が “科学の中で最も難しい問題 “に取り掛かることになった。言語学者のみならず、考古学者、人類学者そして心理学者なども、多様な理論と方法で言語の起源を話し合う論争に加わった。
[3] 言語の進化と起源を探る人々が研究している重要な分野の一つが、乳幼児や子供がどのようにして第一言語を獲得するかという疑問である。第一言語習得には、心理言語学、社会人類学、音声学、さらに遺伝学の研究も含まれる。言語を習得する能力は、子宮の中で始まると言われている。胎児は、母親の発話パターンや音を聴き、それらを解釈することができるのである。生後4ヶ月までには、赤ん坊は個々の音を聞き分けることができるようになり、喃語で話し始める。これは、実際に音として発することにより、言語音を探っているのである。手話にさらされた聴覚障害のある赤ん坊も、他の赤ん坊が音という形で喃語を発するのと同じように、ジェスチャーで喃語を発するようになる。その結果、科学者たちは、言語を介してコミュニケーションをとる必要性は人間の生まれつきの特性であると考える傾向があるが、遺伝学者たちはこの点については納得していない。
[4] 進化生物学者は、言語の知識が人間の遺伝子を介して伝達されることに対し懐疑的な姿勢を取り続けている。言語習得に関する議論は激しく、それも”普遍的な文法 “で知られるノーム・チョムスキーによって提案された50年前のアイデアが中心となっている。チョムスキーの考えによると、赤ん坊は生まれながらにして言語を学ぶ能力を持っており、具体的には「言語習得装置」を持ち備えているとしている。赤ん坊は言語を最も単純な形に変換し、そこから組み立てていく。この理論の反対者は、言語は、赤ん坊の他の伝達者との意思疎通を介し学習されるものであると主張している。
[5] 発展し続けるこの分野は、継続し続ける発展と成長への前進の意味で、進化の本質を象徴している。このダイナミックな分野に関連する歴史や科学、証拠を解明していくことの挑戦は、学術界を魅了し続けていくはずである。手がかりは存在していても、それが言語の全体像を明らかにすることはほとんどない。人々によって学習され、複製され、常に変化の可能性を持ち、取捨選択が起こりうるというその言語の本質上、言語は進化にまつわる完璧な研究のように見えるが、実際のその複雑さは進化の域を超えているのである。このように、科学における「最も難しい問題」は学術界の最も聡明な頭脳に挑戦し続けており、今日に至るまで意見の合意は得られていない。
[1] 集団で、特定の季節に生息場所を行ったり来たりするという一般的な生物移動とは異なり、人口移動はある地域を永久に離れ、新しい地域に定住することを意図した人々の移動を意味する。これには、快楽やビジネスの目的のための旅行は含まれていない。また、減少傾向にある一般的な生活様式の、一つの場所から別の場所に移動する(多くの場合、資源を求めて)ことを伴うが、任意の一つの場所で永久的または半永久的に定住する意思を持たない、いわゆる遊牧生活も、これには含まれていない。
[2] 21世紀のグローバル化した経済において、移住、「移民」、または新しい国への移動は一般的に見受けられるが、大量の人間の移動は実は現代に限ったことではなく、寧ろ人間社会において継続的に繰り返されてきたものである。人類の移動は、15万年前にホモ・サピエンスがアフリカ大陸を移動し、8万年前にアフリカから出て、4万年前にアジアとオーストラリアに移動したことから始まった。それらの最初の先史時代の移動以来、世界中の人類の歴史は移動の物語であり続けている。伝統的な歴史書には必ずと言っていいほど、大規模な移動を表す矢印が描かれた時代別の地図が掲載されている。事実、人類の進化の原点となったアフリカ以外の、世界のほぼすべての地域の歴史は移動と結びついている。
[3] もちろん、経済発展は人の移動とそれを促進する交通手段に全く新しい原動力をもたらした。産業革命を始めとして、人々は新しい工場で働くために田舎から都市へと移動した(国内での人口の移動は、しばしば国内人口移動と呼ばれる)。この動きは、人々がより良い雇用機会やより良い賃金を求めて移動する、経済移民の増加傾向の始まりを記録した。そして、今日のグローバル経済の中では、仕事の見通しが悪く賃金の低い故郷に、勤勉な移民らが送金しているのを見かけるのは一般的になっている。
[4] 雇用を求めて移住することは、移住理論では「誘導」要因として知られているものの一つに過ぎない。誘導要因とは、移住者を引きつける、移住先の国や地域の魅力的な側面のことである。もちろん、雇用やお金は一般的な誘導要因であるが、全体的な生活水準の高さも誘導要因の一つである。このことは、なぜ多くの人口移住が、先進国ではない国から先進国または地域に向けて起こるのか、その理由の一端を説明している。根拠は明白なのだ。人々は、生活がより良い(あるいは、移民は新しい地で全く新しい困難に立ち向かうことになり、それらは予想されていないものかもしれないため、「より良いと思われている」というほうが適切かもしれない。)場所に移動するのである。魅力的なのは目先の仕事の見通しだけではなく、将来の雇用機会を高めることができる教育も含まれる。より良い生活水準には、健康と安全に関連した誘導要因も含まれているかもしれない。例えば、多くの人々は、より良い医療ケアや、全体的な生活と人に関する安全性の向上を求めて、新しい地に定住している。
[5] 仕事とお金は移住における経済的要因である。しかし、安全性という観点は、移住に関連する他の一般的な理由へと我々を導いてくれる。安全性は、環境的要因、または社会政治的要因のいずれかに関連づけられるのかもしれない。つまり、移住者は、移住先には自分たちが去っていく場所よりも安定し安全な環境があると考え移住を決めるのかもしれないし、あるいは、市民の自由と基本的な保護がより確実に保証されている、恣意的または権威主義的ではない政治体制を求めて移住を決断するのかもしれない。しかし、移住が安全に対する緊急性からのみ行われるというのは間違った考えである。北米の高齢者が老後に、より暖かい気候の場所に移住することを選択していることを例にとってみる。それは、四季のある場所で、生活が差し迫った危険にさらされているという意味ではなく、単に日当たりの良い気候を好んでいるということである。勿論、理由がどうであれ、移住の決断というのは、2つの別の場所を比較するということを意味する。自由度の高い場所や天候の良い地域を求めることは、自由度の低い場所や天候の悪い場所から脱出することを意味し、移住における「発動」要因となる。
[6] 発動要因とは、移民が離れようとしている地域や国に関連したものである。つまり、人々がその場所を離れたくなるような(場合によっては、離れざるを得ないような)場所の側面である。発動要因の多くは、雇用機会の欠如や横行するインフレなどの経済的要因である。その他の要因としては、残酷で権威主義的な政府や指導者であったり、市民を虐待したり、恐怖心を刺激するために拷問や抑圧に頼ったりする政治システムなど、社会政治的なものもある。環境発動要因としては、熱帯暴風雨、地震、洪水、干ばつなどの自然災害や、それらの発生する可能性などが考えられる。また、その他の要因は文化的なものであるかもしれない。